1975-03-14 第75回国会 衆議院 内閣委員会 第6号
忘れられない砂漠の収容所生活。だからその意味では、東海岸、西海岸ありますけれども、現在この地域別に、非常に考え方が違う。この方はそちらを歩いてこられたようです。 したがって、そういった配慮なしに、真の日米親善という形のものは出てこぬのではないか。
忘れられない砂漠の収容所生活。だからその意味では、東海岸、西海岸ありますけれども、現在この地域別に、非常に考え方が違う。この方はそちらを歩いてこられたようです。 したがって、そういった配慮なしに、真の日米親善という形のものは出てこぬのではないか。
帰国の望みも断たれたまま、収容所生活はすさむ。二十年の暮れ、」戦争に負けた年です。「事件が起った。佐藤さんの話によると、同中隊のA准佐を」准佐というのはこれは一番悪いのです。ちょうど齋藤君みたいなものなんです。このA准佐——准佐ではありません、准尉ですが、「同中隊のA准尉を兵隊四十数人が集団でなぐり、軽傷を負わせたのだ。収容所の生活は苦しい。食糧が乏しかった。
現在刑務所で刑を終えて収容所に入った者が二十八名か九名おると思いますが、その人たちはただ警官の言うがままになっておるのであろう、そういう人たちはおそらく収容所生活はできぬのじゃないかという考えを私どもはしておるわけです。警官の数としましては、入った当時は四十名くらいが二十名くらいずつ一昼夜交代でやっておりました。デモ後は約八十名で倍になったわけです。
もちろん私たち収容所生活にあった者の中には、戦犯者の方や、われわれのような満刑になって、地方へ居住地を指定されておる者等、種々の人たちが生活しております。それが昭和二十九年の四月十七日に私たちのところから最後の引き揚げがありまして、その後現在に至るまで一回も引き揚げ問題がなかったのであります。
従いまして、集結当時の日本人は、いつかは必ず帰れる日がくると思うから、それまでの間はがまんをしてお互いに仲よく、弱い者は強い者が助け、若い人は年寄りを助けて、お互いに仲よく時のくるまで待とうという気持を持って五〇年初期における受刑者の収容所生活が発足いたしました。 このようにしまして自後年月を経過しました。
この二つの面から見まして、法的に根拠を持って収容されておるものでありますが、あまりにも長く収容所生活を継続せしめるということは、人権上の問題から検討の要があると思います。これを将来どうさばいていくか。端的に申しますと、今局長が言われたように、韓国側が引き取ってくれないとしますと、だんだんたまるばかりでありまして、どこにもはけ口がないというような問題が起きます。この問題をどう処理していくか。
これで私らの収容所生活を非常に助けてくれました。 今後の引揚げの見通し。私どもの方では、現在服役中の者で残留している者は八名、自由市民として残留している者は四名おります。
昭和二十五年春以来中絶しておりましたソ連地区残留同胞の引揚げが三年ぶりに行われ、去る十二月一日午前七時に引揚船興安丸が無事舞鶴に到着いたし、シベリヤにて苦難の収容所生活を送つて来られた同胞八百十一名を目のあたり迎え得ましたことは、まことに御同慶に堪えないところであります。
今のような状況の中で、那覇と首里とのまん中のところに真和志村というところがございますが、真和志村の人々は、米軍がここに上陸しまして、ずつと押して来るこの間に、住民は一緒に押されてこちらに来ておりましたわけで、この付近の帰没した真和志村の人は、この村のここのところに集結しておつたわけでありますが、この収容所生活の間に、願いを出しまして遺骨收集を初めまして、有名なひめゆりの塔とか、健兒の塔とか、魂醜の塔
一九四八年の六月か七月ごろソ連の政治部の将校、本部の方から少佐の人が来て、お前は一体、民主運動をやるつもりかと言われました際、私は民主主義者ではないと断言しておきましたけれども、向うの日本人の間の民主運動に対して肯定的であるか否定的であるかと言われれば、やはり収容所生活の危機を脱する一つの方法として、それはやはり肯定しておりました。
○菅証人 私自身としては、政治的な確信というものは持つておりませんでしたけれども、たとえばソ連の収容所生活において反動と言われる人たちは、多くたとえば麻雀をやつたり、あるいはいかがわしい話をしたり、あるいは規律を破壊するというような行動をする者もいたわけです。
次いで結局樺林というところに出て来ましたが、樺林でソ連につかまつて、牡丹江の収容所生活をしたのであります。この収容所の生活についてもお話したいと思います。収容所はその当時ソ連の管理になつておりました。しかしながら、収容所内におきましては、日本の軍隊そのままでありました。
元々収容所生活では、生き長らえて帰國するということが最大の念願でありますることは申すまでもないところで、從いまして各人のこの焦燥感による不安定なる精神状態と、非民主的、軍隊的因習に基く集團生活、加うるに給養の粗惡、寒冷、不衞生のため、当初の死亡率は相当に高かつたのでありまするが、收容所の秩序改善に伴い、死亡率は低下し、現在は死についての憂慮は特にないと考えられるに至つておるのであります。